古民家の記

いつも(!)「古民家改造工事」をしたい・・・誰かさんの代筆で(笑)ミーハーブログをしているkominka(ツマ)でございます。

 斎藤祐樹選手(不肖うちのみかんと同じ年)、サッカーの長友祐都選手イタリアでデビュー大活躍らしい・・・すみませんスポーツには疎いもので(苦笑)と同じように唐津では高取邸・大島邸とすぐそばにあり運命を分けた(保存と解体)のは?なんだったのでしょうね。



これは明治初期の蔵(屋根下)の竹

 本日はもう「なし」
ほんの半日であっというまに、消滅しました・・・・

        ×      ×      ×      ×


 「旧大島邸」解体(途中)説明会、2月11日(金)午後です。行きたいと思っていますけれどどんな不測の事態が(笑)起こるかもしれないので・・・まだ未定ですみなさんは祭日でもありますのでいかがですか? 不肖kominka(ツマ)のあこがれの西先生のお話も聞けますよ!


山内薬局「ぼちぼちブログ」より
http://blogs.yahoo.co.jp/enya12/53242885.html

 山内薬局「掲示板」に新しい書き込みがあり・・・しかれども不勉強なkominka(ツマ)「あ?これは明治?昭和?のこと?」と悩んでしまいました(笑)

※※「掲示板」より引用※※
題名:明治中・後期の高取伊好  名前:やまめのたより 2011/02/06(日) 15:00 No.1303 gate201.bunbun.ne.jp

 お久しぶりです。
高取伊好の高取邸建築の期間は、次のようです。

 鉱業は石炭採掘が主であり、農業に次ぐ主要産業である。炭坑は東松浦郡小城郡杵島郡西松浦郡に所在、38年には炭坑数85、労務者数1万625人で筑豊に次ぐ炭坑地帯であった。主要炭坑は東松浦郡では、芳谷、相知、矢代町、牟田部、多久地方では柚木原、杵島地方では福母、市村、杵島、北方、赤坂口であった。中央資本、筑豊の鉱業家の県内進出、地場資本の活躍も目立ち、この動きを概観すると、三菱は東松浦郡では、33年11月高取伊好が共同経営していた相知炭坑、41年10月牟田部炭坑、さらに44年4月芳谷炭坑を買収など、同郡の主力炭坑を買い占めた。三井は31年12月相知村の鹿子岩炭坑を買収している。筑豊の大辻炭坑から転じた古賀製次郎は宮島伝兵衛から鉱区を買収して34年6月岸嶽炭坑を開発、筑豊の貝島は32年8月多久の柚木原炭坑を買収、41年3月岩屋炭坑などを買収し、42年1月柚木原炭坑から撤退して生産を岩屋炭坑に集中。多久地方では、北多久地区で中小20数坑が操業、杵島郡では相知炭坑から撤退した高取伊好は34年9月大串又左衛門所有の福母炭坑の採掘権を得る、35年赤坂口炭坑を買収、さらに42年12月に田島信夫から杵島炭坑を買収、杵島地方に本拠を構えた。中山重次郎は大町・北方一帯の優良坑区を集積、佐世保の藤原勘次郎に売却、これが後の佐賀炭坑となり、のち高取に買収されドル箱となった杵島第3坑である。古賀善兵衛は北方炭坑を経営、34年12月には市村炭坑が同村に開坑している。伊万里湾では麻生太賀吉が41年12月久原炭坑を重野謙二郎らから買収している。大手炭坑を中心に技術の近代化が進み、輸送手段では、鉄道を炭坑構内に引き込み直接積み込みや軽軌道による合理化が進んだ。採炭技術では、芳谷炭坑は電気を取り入れ、採炭現場に英国製コールカッターの導入、圧搾空気による採炭、電気扇風機による通風、ベルト式の選炭など当時有数の近代化

 
 なんとなく最盛期は昭和初期かと思ってたので33年とか41年とあると昭和かな?あまりに近代的(そうとう設備投資している)な最先端の技術のようなので・・・でも「明治」の石炭産業の勢いが、だから大島邸(明治20年代)高取邸(明治30年代)と競い合うように豪邸が唐津の一等地に建てられたのですね三菱(現民俗資料館、岩崎弥太郎)・三井・筑豊の貝島なども乗り出して来ていたみたいだしふーーむ。
 ついでながら昨日解体した、わが地元の蔵も明治初期の建造らしいのですよ(いばりっ!)そのうち・・・あとでもう少し取材してきまーす。